京セラの稲盛和夫名誉会長(90)が死去 一代で世界的企業を築いた「経営の神様」
京セラ創業者で名誉会長だった稲盛和夫(いなもり・かずお)さんが、24日午前8時25分、老衰のため京都市内の自宅で死去した。
90歳だった。Jリーグ京都を発足当時から会長職で支え続け、本職では「経営の神様」としてKDDIを設立、日本航空の再建にも成功した。葬儀・告別式は近親者を中心に終え、後日にお別れの会を執り行う。喪主は長女の金沢(かなざわ)しのぶさん。
1958年12月、当時松風工業の特殊磁気事業部長だった稲盛和夫は、平社員の否定的な態度に腹を立てて会社を辞め、独立を決意する。
稲盛和夫の考えはシンプルで、自分の才能を生かすのに十分な自由がある場所を作ることだった。
資本金も設備もないにもかかわらず、苦楽を共にした7人のパートナーは、小指を切ってまで協力し、"この血の誓いで、我々は団結し、社会のため、世界のために何かを成し遂げる "と誓ったのです。
幸い、かつてのリーダーの紹介で、稲盛和夫の人柄と手腕を見抜いた投資家が現れ、1959年4月1日、荒れ果てた倉庫の中に京セラが正式に設立されたのである。
祝宴の席で、稲盛和夫は率直に抱負を述べた。
"原町ナンバーワン企業 "に必ずなる。 原町でNo.1になった後は、西の京でNo.1になることが目標です。 そうすれば、中京で1番、京都で1番、日本で1番、ひいては世界で1番になれる!"と。
意欲的ではあったが、何しろ京セラは設立されたばかりで、設備も人員も限られており、技術的に未熟な社員もいて、社員でさえ稲盛和夫の言葉を真に受けてはいなかった。
お客様の注文に対応するため、京セラは大変な苦労をした。 稲盛和夫は、しばしばスタッフを率いて夜通し働き、皆疲れ果て、「こんな必死な仕事はせいぜい1週間だ」と思う人もいた。
しかし、稲盛和夫にはペース配分など考えている暇はなかった。 京セラはスタートが遅く、ライバルに脅威を与えない素人に近い存在であり、ベストを尽くすことを選択しなければならなかったのだ。
幸いなことに、京セラは十分に頑張ってくれたし、大げさな仕事量でも、みんな我慢してくれた。 京セラはわずか1年で2,600万円、300万円の純利益という好成績を上げ、翌年には売上と利益が倍増したほどだ。
しかし、会社が拡大し、社員数が増えてくると、このような連日の深夜残業は維持できなくなった。
1961年4月末、入社1年目の社員11人が稲盛和夫の事務所に押しかけ、「昇給とボーナス」を要求し、「このままでは一緒に辞める」と血相を変えて手紙まで書いてきたのだ。
新入社員の要求は確かに合理的であった。 当時の京セラの経営者は、時間の概念がない昼夜逆転の仕事人間ばかりで、新入社員は毎日夜遅くまで、時には休日返上で仕事をさせられていた。
家族を養うために給料も当てにしている「みじめな」起業家として、稲盛和夫は最初、理屈をこねようとした。 しかし、その説得を「資本家が我々を欺くための大言壮語」と見抜いた若くエネルギッシュな彼は、その説得に応えたのである。
交渉は三日三晩、膠着状態に陥った。 結局、稲盛和夫は最後の力を振り絞るしかなかった。
"会社を辞める勇気があるなら、なぜ私を信じる勇気がないのですか? 私は、皆さんのためにこの会社を経営することに命を賭けます!」。 もし私が裏切ったら、ナイフで私を刺すんでしょう!"
この言葉に相手は感動し、ついにこの騒動は幕を閉じた。
稲盛和夫は、交渉の末に、創業3年の小さな会社が、若い社員の生涯の信頼を背負わなければならないことが、ただただ理解できなかった。 自分はまだ田舎で家族の面倒を見ることができないのに、社員の生涯の面倒を見なければならない、そんな重荷を背負って会社を経営しなければならないのか?
しかし、稲盛和夫はすぐに、今日のモデルはたとえ成功したとしても、社員の利益を犠牲にする必要があり、会社経営の最も基本的な目的は、社員全員の幸福でなければならないことに気づいた。
その後、「全社員の物心両面の幸福を追求する」ことが京セラの経営理念となった。 その後に「人類と社会の進歩発展に貢献する」という言葉が続きます。
わずか10年で、京セラは世界のトップ500に入る企業になった。
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